N の 憂 鬱28
〜麻田と「ブルーライト ヨコハマ」(3)


          ◇       ◇
 突然、下宿部屋の引き戸が開けられ麻田が顔を出し、そこにNの姿を認めると麻田の顔が一瞬戸惑ったように見えたが、すぐさま何もなかったかのように「部員も増えて活気が出てるそうじゃないか」と笑顔を見せNを労(ねぎら)った。
 Nが2回生になった春、突然、社研に新入部員が5人入部してきた上に、そのうち2人は女性だったから、物珍しさも手伝い4回生の先輩部員も顔を見せたり、男性新入部員も毎回読書会への出席はもちろんのこと、それ以外の日にも部室に顔を出すようになっていたことをどこかで耳にしていたのだ。

 まさかN達がその部屋にいるとは思ってなく一瞬戸惑いの表情を見せたものの、何も言わずそのまま帰ると訝しがられるとでも思ったのか、「実は今こんな仕事してるんだ」と手にぶら下げていた四角いバッグのようなケースのようなものを畳の上に置き、中を開いて本のようなものを取り出してNの前に置いた。

「レコード集だよ。ちょっと前まではゴミ清掃のバイトをしてたんだが、あれは酷かった。ゴミの臭いが身体に着いて取れないんだ。バイトの帰りに電車に乗ると嫌な顔をされるしね。それで、仕事が終わった後、風呂に入りに行くんだがね、風呂で洗っても臭いが取れないんだ。あの臭い、なんとも言えない臭いで、参ったよ。カネになるからしばらく続けたが、まあ、嫌になって辞めて、今やっているのがこれだ」

 そう言ってニヒルな笑顔を見せた。
目の前に置かれた四角く薄い本のようなものの表紙には女性の顔写真が載っていた。
「えっ、なんですか、これ」
 見たことがない女性の写真だったので怪訝な顔をして聞き返すと「君、知らないのか。『ブルーライトヨコハマ』。いしだあゆみが歌ってるやつだよ」と、世間知らずな奴だなという顔をし
「家を廻って奥さん相手に売ってるんだよ。『いしだあゆみのブルーライトヨコハマも入っています』と言ってね。いしだあゆみは知っているだろ」
 いしだあゆみの顔は知らなかったが「ブルーライトヨコハマ」はその頃、どこに行っても流れていたから歌は知っていた。

(歌謡曲全集を麻田さんが売っている?)
 頭の中で若い女性歌手の歌と麻田の風貌が「=」にならず「≠(等号否定)」で結ばれたばかりか、麻田に訪問販売される相手に同情心さえ湧いた。
(この風体だからな。信用されず1つも売れないのではないだろうか。それとも押し売りか何かと思われ、怖くなって買わされるのだろうか。)
 「いしだあゆみのブルーライトヨコハマも入っています」と言う麻田の口上を聞きながら、そんなことを考えた。
「どうだ、N君も」
 そう言われて急に現実に引き戻され「いや、いや、そんなカネ持ってるわけないでしょ」という言葉が咄嗟に口を突いて出たが事実そうだった。
 学生が歌謡曲全集など買えるはずがない。そのことは麻田も分かっていて、N相手に本気で売ろうなどとは思ってはなく、冗談めかして言ってみたという感じで、それを潮に麻田は帰った。

(麻田さんは何しに来たのだろう。)
 Nが目的ならNの下宿先に来るはずだし、その場に一緒にいたKはNの隣の部屋だから、やはりここに突然訪ねて来るのはおかしいし、2人がここにいるのは誰も知らないはずだ。
 では、目的は誼子(よしこ)?
 いや、それはない。誼子はKと付き合っているというのは仲間内では周知の事実だし、文甲1、2の美人と噂された誼子が麻田に興味を示すとは思えなかった。

 後になって分かったことだが、麻田の目的はやはり誼子だったようだ。この時2人の関係がどこまで進んでいたのかは分からないが、麻田は誼子を中核派にオルグしていたようで、それがこの時すでにか、それとも後になってかは不明だが、同志的な関係を越えた結び付きにまで発展していったようだ。

 「消灯!」
突然、スピーカーから大きな声が聞こえ、房の電気が落とされた。といっても真っ暗になるわけではなく、廊下側から内部の様子が見える程度に薄暗く照明が落ちるだけだが、もう寝ろ、と促す合図であり、Nも麻田のことは隅に追いやり眠ろうとしたが、寒くてなかなか眠れず、布団の中で身体を丸めモゾモゾとしていたが、いつの間にか眠りに落ちていた。
                                           次回へ続く
 


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