N の 憂 鬱-28
〜麻田と「ブルーライト ヨコハマ」(2)


              ◇            ◇

 麻田は社研(社会科学研究会)の先輩で、Nが1回生の時に経済専攻の4回生か5回生だった(誰に聞いてもそういう曖昧な返事しかなかった)が、授業に出ている風は全くなく、遠目には白っぽいYシャツに見えたが近くで見ると黄色く変色したYシャツをいつも着ていた。
 袖口は黒く汚れ、何日も洗濯していないか、洗濯しても袖口の汚れが落ちない程そのYシャツを着ているのではないかと思えた。当然アイロンなどはかかってなくヨレヨレで、それが女心をくすぐるのかどうかは分からないが、彼の方にはそういう意識は皆無と見えたし、近付けば臭うような男に惹かれる物好きな女がいるとも思えなかったから女の陰など全くないように見えたが、それは間違っていたということを後に気付かされた。

 無精ひげを生やし、話をする時はいつも上目遣いに射るような視線を相手に投げる。だから、あまり親しくなかったり、麻田のことをよく知らない相手はそれだけで居竦(すく)んでしまい、積極的に麻田に近付こうという人間はごく少なかった。
 Nも麻田とは頻繁に会話したり、社研の他の先輩達とのように釣るんでどこかに行くということはなかったが、2年振りに入ってきた新入部員、それも勧誘して入部させたわけではなく、相手の方から飛び込んで来た新入部員だから見込みがあると麻田に思われたのかどうか、最初の頃はよく喫茶店に誘われた。

 といってもノンビリコーヒーを飲むという感じはなく、部員の紹介、今日の読書会には来ていないが、他にこういう奴とこういう奴がいるとか、Aは新聞部と掛け持ちだとか、今新聞部にいるBは前に社研にいたなどという話を小さな声で早口で喋り、時に彼一流のニヒルな笑顔を見せるのだった。

 麻田にしてみれば、せっかく飛び込んで来た「夏の虫」を逃げ出さないように大事に育てなければ部の存続が危ぶまれたからで、実際、その頃、活動していない休眠状態のサークルは部室を明け渡すようにという話が持ち上がっていた。
 ワンダーフォーゲル部が部室を欲しがっていて、目を付けられたのが新入部員もいず、活動しているとは思えない社研が使っている部室だった。
 そういう事情もあり麻田はなんとしてもNに辞めずにいて欲しかった。

 社研は不思議な部だった。部員が何人いるのか、誰が会長なのかも分からず、読書会をすると言っても誰が参加するのか、何人参加するのか、麻田でさえよく分かってなかった。
 だから読書会の日時、テーマを設定しても、部員が誰も集まらず何度も流会になっていた。

 そこに何も知らないNが「夏の虫」よろしく飛び込んで来たものだから「1回生が入部したらしいぞ」「どうせ麻田氏が流したデマだろう」とか「どういう奴か見てみようじゃないか」などと半信半疑ながら好奇心に駆られ3回生、4回生の部員が読書会の日に顔を出した。
「君か、新しく入った部員というのは」
 やさしそうな顔をした男が笑顔でそう質した。
「はい、入ったというわけではないんですが、読書会に参加したいと思って」
「そうか。まあ、いいや。俺は法律の中西」
 自己紹介をしてくれたのは中西だけで、他の連中は「おう、お前何していたんだ」「お前こそ顔も出さずにどこをうろついていたんだ」などと、まるでNの姿が目に入らないかのように、てんで勝手に話し始めていた。

 いたたまれず、ここに来たのは間違いだったと後悔し始めた頃、部室のドアが開いて麻田が入ってきた。
「おう、皆集まってるのか。N君も来てるね。紹介しよう、N君だ。読書会に参加したいという申し出があってね。取り敢えず今日は顔合わせ程度にして、読書会は来週から始めよう」
 そう言って麻田は「大塚久雄 社会科学の研究」と板書した。
「テキストは大塚久雄の『社会科学の研究』だ。N君、岩波新書だから本屋に行けばあるから、買って来週までに読んでおいてくれ」
 それを聞いてNは驚いた。
 えっ、「共産党宣言」ではないのか。読書会の案内と違うじゃないか。「共産党宣言」を読書会でするとあったから出てみたいと思っただけで、社研に入部するつもりで来たわけではないし、と気持ちが引いた。

「あのう、1回生の部員は?」
「N君、君だけだよ」
 麻田がさも当たり前のようにさらりと言ってのけた。
(えっ、俺だけ。大丈夫かな)
 不安が過り、来週の読書会への参加は取り止めようかと迷ったが、結局、帰りに本屋に行き大塚久雄の「社会科学の研究」を買った。

 揺れ動くNの気持ちを察したのか、あるいは2年振りの新入部員をしっかり留めたいと考えたのか、麻田はNを喫茶店に誘い、その日参加した者以外の部員達のことまでを教えるなど、なにかと声を掛け大学近くの喫茶店によく誘った。
 こうして麻田との関係が始まったが、しばらくすると部室や読書会の場で麻田の姿を見ることはなくなり、麻田は「行方不明」になった。
 そして入れ替わるように法律専攻の3回生、中西がNを誘いだし、気が付けば中西と行動を共にすることが増えていた。
 麻田の姿は時折りサークル棟で見かけることがあったが社研の読書会にはほとんど参加せず、部室に顔を出すことも減っていた。

 68年頃からは麻田の姿はほぼ学内から消えた。たまに見かけ声を掛けると「おうN君」と相変らずニヒルに頬を緩め近付いて来て「これ、読んでおきたまえ。今の動きが分かるから」と小脇に抱えていた中核派の機関紙「前進」を1部渡すと去って行った。
 なにやら忙しそうに見え「今、何をされてるんですか」と聞く間もなかった。次に麻田の姿を見たのはNが学友の下宿で話をしている時だった。
                                (3)に続く

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